頤和園:江南を北へ移した夏の離宮
北京の西北郊に、水のほうが陆地より広い庭園がある。北京西郊の「頤和園(イヘ園)」、一九九八年に世界遺産に登録された。理由は「中国の風景園林設計芸術の見事な例であり、自然景観と人工の仕事を見事に組み合わせている」というもの。一九六一年には最初の全国重点文物保護単位にもなっている。世界遺産番号は880。

三〇〇ヘクタールはどうして生まれたか
敷地面積は約三〇〇・五九ヘクタール、その四分の三ほどが水面。建築面積は七万余平方メートルにすぎない。主な水面が昆明湖で約二二〇ヘクタール、主な山が万寿山で標高一〇八・九四メートル。
もとは清漪園といい、乾隆15年(1750年)の創建。乾隆が母・崇慶皇太后の六十の寿を祝い、あわせて西郊の水系を疏浚するため、「甕山」と「西湖」を底本に大改造を始めた。西湖を浚渫して拡大し、汉武帝が長安で昆明池を掘って水軍を訓練した故事に倣って「昆明湖」と改名。甕山は「万寿山」と改められ、「万寿無疆」の意を込めた。工事は十五年続き、乾隆29年(1764年)顷にほぼ完了、銀約四四八万両を投じた。乾隆の「三山五園」では最後に建った一座である。

一度の火事と十年の再建
一八六〇年(咸豊十年)、英仏联军が北京に入り、西郊の皇家の庭園を焼き掠めた。清漪園はほとんど平地になり、銅亭(宝雲閣)のような金属・石造の建物だけが残った。木造の建物はすべて灰になった。
光緒12年(1886年)、垂簾聴政の西太后が「颐养冲和」の名で海軍軍費を流用(名目上は「海軍の創設」)して再建に着手し、十年の年月を経て光緒21年(1895年)にほぼ完工、庭園名も「頤和園」と改められた。「颐养太和」の意である。清漪園の格局はおおよそ復元されたが、财力が限られていて後山の大报恩延寿寺などは完全には復元できなかった。逆に建築のほうは一層複雑華麗になり、清末の趣味を伝えている。
長廊――画廊であり、二七三間の部屋
排雲門から石舫まで、全長七二八メートル、二七三間の長廊は、現在中国に残る最長の画廊である。梁や桁には蘇式彩画が描かれ、山水花鳥から『紅楼夢』『西遊記』の人物故事まで題材は幅広い。一周歩けば民間の絵本を一周したのと同じだ。春から夏の斜光が柱の影を湖面に落とすのが、頤和園で最も写真になる一枚。

前山の中軸――排雲殿から仏香閣へ
万寿山の前山は一本の中軸を上っていく。排雲門、排雲殿、德和園(光緒の再建時に太后の起居所、楽寿堂・玉瀾堂・宜雲館を含む)、そして高さ四一メートルの仏香閣。仏香閣は全園で最も高い建物で、八面三重四重檐、閣の上から昆明湖の水面全体と後湖の帯状の水域を見渡せる。その上は衆香界・智慧海と続き、山頂まで琉璃の塔が並ぶ。
昆明湖と西堤――江南を北へ
昆明湖の東岸・北岸は規則的な宮殿区だが、西へ行くと気分が変わる。湖の南東から湖心へと伸びる十七孔橋は数百の石獅子を戴き、夕暮れには上のアーチが次々に金に光る。西堤は六つの橋を並べた長堤で、杭州西湖の蘇堤にならったもの。堤の上に桃と柳が植えられ、春には钱塘江の気分である。湖中には石舫の清宴舫がある。船体はすべて白い石材、屋根は黄花梨の艫(やとかじの部分)という、乾隆が江南で見た船を水面に移したものだ。

後山後湖と蘇州街
仏香閣から北へ下りると後山後湖の一带で、人も少なく木が茂る。湖沿いの蘇州街は江南の市肆をまねた商店街で、もとは太后の化粧や遊覧のためのもの、現在も一部の店構えが原址に復元されている。前山の対称的な格局とはまるで違い、山肌・水筋・小さな石橋が続いていて、山道を歩いている気分になる。冬は冷え込み、夏は避暑には最適だ。

どう歩けば疲れないか
- 開園時間:四月一日〜十月三十一日 6:30〜18:00。十一月一日〜翌年三月三十一日 7:00〜17:00。仏香閣・德和園などの園内見地点は繁忙期8:30〜17:00、閑散期9:00〜16:00。月曜休園。
- 入園料:繁忙期30元(聯票60元)、閑散期20元(聯票50元)。学生は半額。聯票には仏香閣・德和園・蘇州街が含まれる。
- 交通:地下鉄4号線(大興線)北宮門駅D口、または西苑駅C2口、徒歩約500メートル。16号線の西苑駅も利用可。バス303・330・331・346・375・384・393・563・584・601・608・618路などが「頤和園」または「頤和園北宮門」停下車。
- 園内交通:歩行のほか、昆明湖の船着場から舟、または東宮門から蘇州街区間までの電動カートが利用できる。
- 建議:東宮門から入り北宮門から出る。まず仏香閣、次に西堤、途中で舟に乗る。すべてを歩ききろうとしないこと。
