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明十三陵:十三の皇帝、山に抱かれた一つの盆地

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北京市昌平区天寿山南麓、東・北・西の三方を山に囲まれ南に開く盆地がある。永楽帝が都を移してから明朝が滅ぶまで、十三人の皇帝が葬られた。二〇〇三年、明十三陵は「明清皇家陵寝」の拡張プロジェクトとして世界遺産リストに加わり、一九六一年には最初の全国重点文物保護単位となった。

明十三陵の全景、天寿山下の陵区

基礎データ

  • 營建:一四〇九年(明・永楽七年)〜一六四四年(崇禎十七年)、通算二三五年
  • 構成:帝陵十三基、妃子墓七基、太監墓一基
  • 合祀者:成祖(長陵)、仁宗(献陵)、宣宗(景陵)、英宗(裕陵)、憲宗(茂陵)、孝宗(泰陵)、武宗(康陵)、世宗(永陵)、穆宗(昭陵)、神宗(定陵)、光宗(慶陵)、熹宗(徳陵)、思宗(思陵)
  • 核心建築:神道・石牌坊・大紅門・碑亭・石像生・棂星門・各陵明楼・宝城・地宮
  • 公開:長陵(地上建築)、定陵(地下宮殿)、昭陵(地上復元)、神道

明代で唯一の例外が景泰帝。英宗の復辟で廃され、北京西郊の金山に葬られ、この盆地には入っていない。

地を選んだのは風水も戦略も

永楽五年(一四〇七年)、永楽帝は礼部尚書の趙羾と江西の術士・廖均卿らに北京周辺の「吉壌」探しを命じた。屠家営、昌平の狼児峪、燕家台などは、地名の不吉か格局の不良で否決された。

最後に選ばれたのが昌平の黄土山。「山勢如屏、龍脈蜿蜒」、北に天寿山を望み南に温楡河、まさに「背山面水」「蔵風聚気」の条件を満たす。永楽帝自ら視察し「山川形勝、気象宏厚」と評して陵址を定め、黄土山を天寿山と改名した。一四〇九年に長陵が着工し、十三陵の首陵となり、陵区の格局を決定づけた。

石牌坊と神道、現存する最大級の石造牌坊

一つの神道が十三の陵を繋ぐ

大紅門から北へ、石像生が両側に並ぶ長い神道が続く。獅子、獬豸、駱駝、象、麒麟、馬が二匹ずつ対で並ぶ。この区間を歩ききるのに一キロほどかかる。石像は明代の原物で、六百年の風に磨かれて輪郭が丸くなっている。神道は特定の陵へ向かうのではない。共通の通路であり、長陵・定陵・昭陵はいずれもここから分岐する。「一陵独尊、諸陵拱従」という配置は、中国の帝王陵としては珍しい処理だ。

石像生、六百年の風雪をまとった輪郭

長陵――楠木の大殿

長陵は十三陵の首で、地上建築を見るなら最も価値がある。祾恩殿は面闊九間、進深五間、重檐廡殿頂、殿内は金絲楠木の柱六十本。中央付近のものは二人で抱えきれないほど太い。現存する最大の楠木建造物である。殿前は漢白玉の欄干と三出階の月台で、立つと圧倒される。

その北へ内紅門、方城、明楼と続く。明楼は陵区内で最も高い地上建築で、楼前に無字碑が立つ。文字が刻まれていない理由は、今も定まっていない。

長陵祾恩殿の金絲楠木柱

定陵――唯一開いた地下宮殿

十三の陵のうち、地宮が正式に発掘されたのは定陵だけである。一九五六年から五十七年、考古工作者が万暦皇帝・定陵の地下宮殿を開き、万暦帝と皇后二人の棺、金糸縫いの衣、玉帯、凰冠など多くの出土品を取り出した。地宮は前殿・中殿・後殿・左右配殿からなり、すべて巨大な青石で築かれ、拱頂の高さは約七・九メートル。

明代の地下宮殿に実際に足を運べるのはここだけだ。見終わった後に多くの人が博物館へ移り、金糸縫いの衣を見る。地宮そのものより意外なほどだ。

定陵地宮の石造アーチの廊道

実用情報

  • 開園時間:四月一日〜十月三十一日 8:00〜17:30。十一月一日〜翌年三月三十一日 8:30〜17:00。定陵地宮及び長陵大殿は16:30 最終入場。
  • 入場料:長陵 繁忙期45元/閑散期30元。定陵 繁忙期60元/閑散期40元。昭陵・神道 各30元/20元。聯票(長陵+定陵+昭陵+神道)繁忙期110元/閑散期70元。
  • 自家用車:京蔵高速(G6)で昌平西関環島まで行き、標識に従って約一時間。
  • バス:徳勝門から872路で直通、終点は定陵、長陵・昭陵を経由。または345快で昌平東関へ行き314路、昌平67路へ乗り換え。
  • 園内交通:各陵が離れているので園内シャトル(約30元/人、当日乗り放題)を利用するとよい。
  • 建議:長陵・定陵・神道を優先し、半日以上見てまわる。歩きやすい靴を。

昭陵の地上建築復元

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